神戸、震災をのりこえて 今、私たちにできること・・・株式会社シースカイ
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神戸、震災をのりこえて>私の大震災
私たちは、あの時、どのような行動をとったのか、どこへ避難し、どう過ごし、そしてどう乗り越えたのか‥。震災から10年という節目において、今、何を教訓にし、これからの時代にどのように活かしていくのか‥。
震災当事、三女が通う神戸市立長田小学校で地震発生3日後から約3週間ボランティアリーダーとして活躍。被災住民、PTAそして自衛官としての立場で幾多の困難を克服‥、学校再開までの苦労をショートカットで紹介します。
  ■長田小学校−ボランティア活動を振り返って(元海上自衛官 岡 二郎)
 
私は、この度の阪神・淡路大震災で大変貴重な体験をしました。それは、自衛官と して、また、社会人としても一生に一度あるかないかの偶然とはいえ、あまりにも大 きな出来事でした。
1月17日の被災当日、勤務地である鹿児島県鹿屋航空基地から、夜中に神戸の 自宅にたどり着きました。私の自宅は神戸市長田区林山町で、一面焼け野原になってし まった新長田駅周辺から北へ約1キロメートル離れた山の手に位置しています。 家財道具はかなりの被害を受けたものの、家屋の方は土台の基礎に少々ゆがみがあった ものの、幸い倒壊の恐れもない様でした。
翌18日、水、食料を求めに近所へ行ってみたが、どこも断水、何も売っていません でした。とりあえず、我が家の応急修理をすることにしました。その日の晩は家族会議を開き、翌日の姫路以西への『買出し、洗濯・・・作戦』を提案しました。
翌19日早朝、義兄の車を借りて一家総出で出発。途中、ポリタンク8個の購入から 始まり、水160リットルの調達、カセットコンロ、食料約1週間分購入等々、ほぼ 所期の目的を達成し、午後9時過ぎに帰宅しました。
「まずは足元を固めてから・・・!」は無事に終了し、次は何をと思っていたところに、 三女の「お父さん!学校が大変だよ!」、放っておけないのが私の性格。
神戸、震災をのりこえて>私の大震災>長田小学校にて
20日の朝、長田小学校の様子を見に行きました。「物資がない」「まとまりがない・・・」先生も神戸市の職員も約1000名を上回る避難住民を前にして右往左往。しかしみんな必死で活動していました。
「何かしなければ・・・!」思わず、傍らにあったメガホンを取り上げ、自分の氏名、6年生 の娘が世話になっている旨、そして海上自衛官であることを説明、協力を申し出ました。
1月20日の朝から、連続20日間のボランティア活動はこうした状況の中から始まりました。 20日間にわたる活動は、前半は、当初の食糧難から一変して、急に増えだした救援 物資の管理、そして、地域住民をも含んだ約3000名に対する物資の(主に食料) 配給等々に追われました。
中盤は、医療団と協力して臨んだ抜本的な風邪患者対策等の衛生管理、衣類等の配給 による生活環境の改善に取り掛かりました。
その間、数えればきりがないほど様々な予測できないことが次々発生し、そのひとつ ひとつを「被災者、長田小の父兄、海上自衛官」の立場で神戸市の職員や学校の先 生、そして避難住民、地域住民みんなで力を合わせて解決していきました。
実行した主な項目(作戦)を挙げてみました。
神戸、震災をのりこえて>私の大震災>長田小学校にて @団体生活を円滑に送るための簡単なルール作り 「生活心得」と、「日課長」を作成、特にトイレの使用法と喫煙については徹底しました。 (教室内禁煙には、大変ご協力頂きました。)

A各教室毎のまとまりを図るため「リーダー」を決めた 連絡事項等の徹底に大いに役立ちました。(中には負担に感じられた方も居られたか もしれません。)

B長い夜を紛らす為の「夜食作戦」 主に救援物資の中の菓子類を配分しました。(結構好評でした。)

C地域住民に救援物資の配給を知らせるための「伝令・ポスター作戦」 先生の協力のもと、小中学生の活用(数人単位で実施。まず校区の外側まで行っても らい、反転し・・・、「長田小学校に救援物資があります・・・!」 と大きな声で言いながら、配布時間等を書いたポスターを貼りながら学校へ戻ってく るようにしました。)

D救援物資搬入等の「バケツリレー作戦」 その場に居た者全てが作業を実施(指示を出す際、ハンドマイクが役立ちました。)

E広範囲かつ計画的な救援物資の確保 神戸市の職員、ボランティアの方々から救援物資に関するあらゆる情報を集め、「どこに何があるか、誰が運んでくるか」等を知り、長期に備えた物資の確保に努めまし た。物資の輸送には、中継基地である神戸外語大やグリーンピア三木からの直行便 (ボランティアの車両)を活用しました。物資のなかでは、とくに毛布、マットレ ス、カセットコンロ等の確保を十分に図りました。

F救援物資の品目別在庫管理(保管場所にも留意) 若手の長期ボランティアの方々の協力頂き、マニュアルの作成を依頼、1月末に完成 しました。神戸市の職員もその有用性に感心され大変喜ばれました。

G避難生活者の実数把握(朝、昼、夕で異なる)ための食数管理 給食室前で各教室毎に並んで配分(避難者の小中高生がよく手伝ってくれました。)

H避難生活者からの要望を調査するための「アンケート作戦」 絶対数の足らない救援物資(下着類等)の配分に役立ちました。

I県、市等から届けられる各種情報等の迅速な配布 若手の中期ボランティアの方々にご協力頂き、職員室前に「情報コーナー」を設置。

J秋田県からの医療団と協力して環境改善 各階の手洗い所に「蛇口の付いた水タンク」と「うがい薬」を設置。 その他数項目あったが、全て効果がありました。

K公平な衣類配給の方法等を提案しルールの作成並びに女性の先生に配給依頼。 救援物資の保管場所に使用していた家庭科教室をデパートの売場のように変身させ、 すべて実施してくださいました。

L神戸市の職員、先生、ボランティアの方々、および避難住民の識別のため名札をつけ ていただくことにしました。 名札の入手に苦労しました。(今後の救援物資のひとつに加えると便利ではないかと 思いました。)

M苦情相談 精神的ケアの一環と受け止め一生懸命対応しました。(これが、一番大変でした。) とりあえず時間のある限り相談にのり、可能な範囲で要望に答えるよう努力しました。

N地域住民に対する救援物資の公平な配給をするための「カード作戦」 一家族一枚(人数を明記)として登録し、配給の都度チェックを実施しました。 以上、15項目について記述してまいりましたが、次のことを考慮してボランティア 活動に臨みました。
以上、15項目について記述してまいりましたが、次のことを考慮してボランティア活動に臨みました。


@一直24時間、四直体制の神戸市の職員の中で全体を統括する方が不在、一日 経てば状況が大きく変化する避難所の特異性から、当初から私がリーダーシップをとる ことを決心しました。

APLAN・DO・SEE(計画、実行、反省)、5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、何故、 どのように)を常に頭に描き、C3I(指揮、管制、通信、情報)を活用するよう に努めました。

Bルール作り等については、神戸市の職員、校長先生等とよく相談し、皆さんの同意 を得て行いました。

C救援物資が到着した場合等は、常に現場で陣頭指揮にあたりました。(現場最優 先)

Dボランティアの方々等に作業を依頼する場合は、なるべく「目的」と「作業方 針」を伝え、作業要領については、各々の自主性を尊重し、お任せしました。

E作業を指示する場合は、堅くならないよう、ユーモアを交えて依頼するようにしま した。

F過去の経験から一日でも徹夜すると長続きしないと考え、「朝6時〜夜12時ま で」と定め、」最初の日から自宅で寝ることに決めました。

G家、家財道具等を一切失われた人々のことを考え、1月29日に被災後初めてのお 風呂に行くまで下着は数回着替えたものの、セーター、ジーパン等は一切着替えない ことにしました。
そして後半、被災当初は1000名を越える避難住民の数が約半数近くになり、避難 生活も一段落した1月の末頃、疎開や転校で児童数の約三分の一あまりが減ってし まった長田小の先生の方々に、一日も早く学校を再開しなければという意識の高揚が 痛いほど感じられました。
私自身の心の中にも「娘たちのためにもできるだけ早く学校を再開せねば・・・」そして、 同時に『避難住民の自治組織』を作らなければといといけないと思いました。 しかし、避難住民への対応が優先される中、「学校教育と避難住民との円満な共 存」をいかに実現するかが大きな問題でした。

神戸、震災をのりこえて>私の大震災>ボランティアのみなさんと
学校再開の為には、教室を幾つか明渡してもらう必要があり、そのためには何よりも、 避難住民へ学校再開の重要性を理解してもらえるか否かが、問題解決の「鍵」となると 考えました。数日にわたって校長先生、神戸市の職員、そして医療団の先生方のご協力を 得てプランを練り、多くの避難住民の理解を求めながら、そのプランを実行に移していきました。
2月1日の夜、教頭先生に司会をお願いして『今後の避難生活について・・・』という議題を 提案、住民代表という立場で市の職員、校長先生そして避難住民の有志約60名との 話し合いの場を設けました。
2月3日、4日と3回の話し合いの末、理解と合意を得ることができ、2月5日の日曜日朝 から、この日のために依頼していた約10名の「日替わりボランティア」等のご協力をいただき 一斉に、教室の移動作業を行いました。避難住民側から学校側に6つの教室が明渡され、併せて市の職員やボランティアと共同で使用していた職員室も学校側に返すことができました。
所期の目的であった「学校教育と避難住民との円満な共存!」を果たすとともに、「避難住民の自治組織作り」の足固めも概ね達成することができました。私が飛び回らなくても、また、あれこれ指示を出さなくても組織が動き出してきたように感じました。
そして、2月8日。上司の理解と許可を得てのボランティアを実施してきましたが、本業を放っておくわけにもいかず、ちょうど長田小学校に来て以来20日目、学校を 後にすることになりました。
当日には、苦労をともにした「仲間たち」から、心温まる「寄せ書き」を頂戴しましたが、 今でも宝物のように大事にとってあります。  
3週間のボランティア活動・・・、毎日がまさに息つく暇もない真剣勝負の連続でした。 私の思いつきやわがままを良く聞いてくださり、実行してくださった方々へ今でも感謝の 気持ちで一杯です。  
今日、平成17年1月17日、震災から丸10年を迎えました・・・。  この貴重な体験は、現在一冊の単行本にするべく慣れないペンを走らせております。  
また、本日を期して発刊しました「神戸からのメール」も第2号の準備中です。(筆者)
 
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